ネガティブな感情、うまくいかない日々を自分から引き剥がし、対象化する試み。それは例えば自虐的ユーモアによって果たされるのかもしれない。
syrup16gの「無効の日」の歌い出しに
「本気出してないまま終了です
あとはほうきで掃いて捨てる」
というフレーズがある。まず歌い出しで「本気出してないまま終了です」と言い切ってしまう、その振り切った情けなさはもはや苦笑するしかない。
また、「明日を落としても」という曲では
「つらい事ばかりで
心も枯れて
あきらめるのにも慣れて
したいことも無くて
する気も無いなら
無理して生きてる事もない」
と歌っている。何が辛いのか語られることもないまま、ただただダメになった人間の姿が淡々と語られる。内容の重さに対してあまりにもあっけらかんと言い切ってしまっている。この歌の興味深いところは、こうやってひたすらネガティブなことを言い尽くしたところで
Cメロに入ると
「そう言って うまくすり抜けて
そう言って うまくごまかして
そう言って 楽になれる事
そう言って いつの間にか気付いていた」
とそのネガティヴ発言への自己ツッコミが入るところにある。
ネガティブな発言の持つ自己憐憫へのツッコミ。しかし、そこから何か進展するわけでもなく、また歌い出しのフレーズに戻っていく。
syrup16gのこうした徹底したネガティブさには、シリアスを通り越してやはりユーモアがあるんだと思う。そうしてないとやっていけないよ、といった感じ。また、ネガティブに振り切ることはそうしたライフハック的な側面だけでなく、物事や自分をそうやって切っていくことで、"本当の何か"にたどり着きたいというロマンティシズムが隠されていると思う。
こういった作法の例としては、「俺ガイル」の主人公比企谷八幡が分かりやすい。彼は1話冒頭で「青春とは嘘であり、悪である。」に続く、作文を書いていることに象徴される、非常にネガティブで捻くれている。そしてその後作中では、その"捻くれた感性"により人の欺瞞を暴いたり、あえて自分もそこで露悪的になることで物事を進めていく。しかし、一方で物語の後半になると、「本物が欲しい」と同じ奉仕部の二人の女の子に泣きながら訴えるなど、非常にロマンチストな一面を見せる。そこには、目の前のことへ穿った見方をしていく、自分を露悪的に出していくという行動と、"本当"というロマンを追い求めるという行動が実は表裏一体になっているという示唆がある。
もちろん、そこの関係が単純にロマンを追い求めるために、捻くれているという簡単な構造になっているわけではない。"捻くれ"にはsyrupの話題のときもあった通り、自分を守るライフハックとしてな側面がまずあると思われる。しかし、素直なだけでは表れない"捻くれ"によって立ち上がるロマンティシズムというのがあるのはではないか?しかし、そこを徹底することでそのロマンティシズムすら否定してしまうということもあり得そう、そうなったときどうなるのか?