虚構太郎

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4/7 雨の中、国立近代美術館「重要文化財展の秘密」に行った

雨の日の地下鉄の駅は生暖かい。自分も汗ばみ、他人の湿気も吸っていそうで、嫌な感じ。繰り返されるアナウンスの後、鉄の塊がギリギリと音を立て、天井の電線を火花を散らして擦りながらやってくる。地下をひたすら走る電車は非常にクールだが、実際に乗車してみると脂の臭い、湿度、密度を感じる。

ブレードランナーが映像として提示した近未来世界は、高層建築、車、などのハードなテクノロジーと、そこに群がる臭い立つような人々の生活空間を。そこには、人口爆発や日本を筆頭としたアジアの発展などの当時の世相が多分に含まれてるのだろう。ディックの原作小説では、ポストアポカリプス(核戦争後)の世界観が強調されていた。

今現在、有効な未来世界の想像がどうなっているのか、あまり知らないが、シンギュラリティとかそんなところだろうか。いよいよ夢を見ている場合じゃなくなったのだろうと想像してみるけど、実際のところよく分からない。

グレッグ・イーガンの『順列都市』では、コンピュータ上に人間をコピーする、つまり物理空間から情報空間に移すことで、人間とは情報処理であるということを描いた。ただ、大きな嘘は、そもそも意思は身体を離れたところに宿るのか?意思は観測不可能である。一方で自らが在るところで、それは裏打ちされている。いや、それは裏打ちではなく、絶対的初期条件であって、そこから全てが始まる。

国立近代美術館で行われている「重要文化財の秘密」に行った。"国立近代"で行われているため、明治以降の絵画の展示が主になる。そこで、見た日本画の凄さに圧倒された。あまりにも絵が上手い。菱田春草の「王昭君」は、絹の衣服の質感表現が現実以上だったり、「賢首菩薩」は椅子までもが、じっとした静謐な立ち振る舞いをしている。また、安田靫彦の「黄瀬川陣」の人、甲冑などの完璧な描写。技巧の粋を尽くした、それだけの物といえばそうなのだが、ものとして目の前にあると説得されてしまう。そいえば、以前浮世絵を見た時も同じような感想を抱いた。

こうして形ある以上、ものに圧巻することは避けられないし、そこを取っ掛かりにしていくことが必要かもしれない。