仕事の進捗が微妙なので、残業して疲れ切った。また残業しながら今の学者がアメリカ、というかトランプについてひたすら批判し続ける番組を聞いていたのもあって余計に精神を削られた。ただ、多少精神を磨耗させるようなものの方が、結果的に集中が逸れにくいという、つまり毒にも薬にもならないものでは飽きてしまうという悲しき性があって、そんな訳のわからない状態で働いていたのかもしれない。
今年の6月は、なんだかんだで涼しくて助かる。夜は窓を開けて雨の音を聞きながら、パンツ一枚で心地よく過ごせる。ずっとこれくらいの気候だといいんだけど。
とにかく、大きな問題に対する自分の無力さ。そもそも、それに比べれば些細な自分の気分すら、保つのは大変だというのに。
まずもって自分の人生すら分からない、そこでその責任を政治に身を投ずるという選択肢。投票には行ったほうがいい、そういった道徳的な押し付けが、そもそも。目の前の人に優しくするけど、例えば大抵の近所を歩いている人の顔見ると、大体好きじゃない。自分が好かないやつしかいない街に住んでる。見ただけで考える前にそう思ってしまうから仕方ない。それでこれまでかなり損してるけど自分の屈折した人間性には慣れていて、今更受け入れている。そんな人間が民主主義どうこうというのも変な話だ。
多様性といっても、どこかで嫌なやつ、変態な性癖をもったやつ、ぱっと見でキモいやつというのは相手にされないし、弾いている。そしてそれは自分もどこかではそうなのである。
だからといって、全く認めないというのは馬鹿げている。ただ、理念としては賛同できても、実際のところ皆自分のことを考えたらどこかで誰かを弾かずにはいられない、ただそのことを分かりつつ、多少はその否定性を含んで発言してほしいという話。これも顔のない、嫌な人間のイメージで語っている。
今まで何人かいた、本当にどうしようもない、社会でやっていけなさそうな人と話したときに、そもそも対話というのが成り立たない次元があるのではと思わざるをえなかった。具体的に言うことはできないけど、例えば、自分が何を欲し、それに対してどうするか、ということがそもそも考えられないような人もいる。それは何も会話ができないという訳ではないが、話していくとそう結論づけるしかない。その人は困ったことになっているのに、本人はそのことに、唖然とするほどの鈍感さで、気付いておらずどうしたものかとなったが、そもそもそこまでの義理も僕はその人に感じていなかったから深入りすることはない。最終的に助けようと思ったら何ができるのだろう。
対話というのは、結局自分と同じ土台を持った人間としか成り立たないのではないか?
ただ同時に希望というのは、そんな難しいことを考えずに、ただ友達をやる、優しくするで、最終的に破滅を止めるストッパーになりえる、というところにあるのかもしれない。
また、そもそも自分も厄介な人間で、大体の人間を信用できず、会社でもそのことを痛感するが、コミュニケーション自体あまり取りたくないと感じる。こっちがどこか欠けがあると思った人としか話ができると思えない。それでも生きるというのは縛りプレイのようなものとして楽しんでいる。どんな結末になるかはそうぞうもできないししたくもない。人ってそういうものなんだろう。