North Marine Distortion

日々のことをなるべくまめに

10/17

なんだかまた、頭の調子が悪いような気がする。

仕事に手がつかない。嫌な記憶がフラッシュバックする。展示を見ても、全然興味をもてない。YouTubeばかり見る。

何かきっかけがあるのか?仕事か、人と会うのが続いたからか?よく分からない。そこで短絡的に原因を求めたところで、そこから自分の駄目さが導出され落ち込むだけで、何も新しい結論や解決策が出てくるわけではないことは何となく想像がついている。

 

調子が崩れたときに寧ろ仕事で人に相談できなくなるとか、人に言われたことをふと思い出して落ち込むとか、自分の弱さを痛感する一方で、他人の弱さについては、悩みの相談に対してマジレスするし、鈍感なのかもしれない。

 

 

何かに夢中になりたいなと思いつつ、どこかで夢中になることへの抵抗感がある。

それは、例えば文化祭で盛り上がることへの嫌さ。人が孤独である、断然しているということを感じるには、夢中にならない。そしてそれが倫理的に重要な気がする。もちろん、常に意識がある状態は辛い。

ジョジョ1部で、ツェペリさんが「「勇気」とは「怖さ」を知ることッ!「恐怖」を我が物とすることじゃあッ!」と語る。そして有名な「人間讃歌は勇気の讃歌」というフレーズにつながる。

例えば、フグに毒があることを何も知らずに、自分でさばいて食べてしまうことは、勇気ではなく単なる無知である。つまり単にリスクある行動が現れたからといって勇気とはいえない。行動のリスクを知り一度はその行動を否定するも、それでも否定した行動をする意志を敢えて表す、という精神的な運動が勇気であり、ひいては人間性といえる。

どこかで、欲望は一度否定されたのち、また再構成される必要があると思う。実際に欲望そのものがそのまま放たれた世界は、簡単に暴力的になるという実感がある。

祭りについて、どこか苦手なのは、再構成を集合的に行うこと。勇気において重要なのは、実は孤独なことである。そして人間性における孤独は単に誰もいないところにいることでなく、人がいる中での断絶を自覚することにあるのではないか。

 

ただ、一方でここで、勇気とは別角度に「敢えて」性もある。これは、リスクを意味にとりかえ、重要でないのにも関わらず、大事にすることだ。

勇気における人間性というのが大事なのか、それ自体も別に疑える。実際、歴史や最近の情勢を見ていると人間なんてものはロクでもないことはよく分かる。それでも、人間性なる言葉にくっつく様々なものには、大事に思えることもあるようだし、皆が皆否定することはないから、敢えて使うということも考えられる。

 

夢中になるというのは、こういったややこしいことを全て粉砕する力がある。ややこしいので粉砕されたいが、粉砕されたいがこそ、粉砕されたくないとも思える。

10/13 バー

神田で働いている友人に誘われて、昼はカレー屋をやり、夜は居酒屋をやっているお店に向かった。

店主は学生運動に少し間に合わなかった世代で、20代にはインドなどに旅へ出て本場のカレーを覚え、帰国後縁があり神田で店を構えたそうだ。昼は百名店にもなったカレー屋で2、3回転もするほどのてんやわんになるようだが、平日夜はカレー屋をやめるため、ひとけもなくしっぽり飲めるようで、友人は夜な夜な通っては店主とサシで話しているらしい。

店に入ると、やはり友人以外には客がおらず、一間の広い店内の窓際は明かりも消されひっそりとしている。頼まずとも立派なお通しが出て、ギネスビールを飲んだ。

バーカウンターの一角の本棚には、渡辺眸による60年代の香具師や東大全共闘の闘争の写真集があった。渡辺眸と店主はインドのゴアで知り合ったようで、確かに70年代にはインド・ネパールの写真を残していた。

 

友人は家族や家業の後継者問題、地縁のしがらみなどを語っていて、そんなのは気にしなくてはいいのではと無責任に返してしまった。

 

他に入れ替わりで2組お客さんがやってきた。どちらも十数年ぶりに訪れたようで、マスターは始め誰だか分からず気まずい間が発生したものの、酒を交わせば、自然と色々な記憶がつながり、マスターの昔の話が溢れるばかりだった。

ブルースを聞きながら、店内の端、薄暗がりの中の木製の大きな切り出しの椅子や机を眺め、ウィスキーのようにすっきりとした麦焼酎を飲むと心地よく酔っ払い、平日の夜とは思えない多幸感に包まれた。

 

 

 

10/12

汚い話なので嫌な人はブラウザバック推奨。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3連休の最後に風呂入れて、洗面所で屁を出そうとしたら、💩が漏れた。それも結構ガッツリ出てきて、さらに不幸なことにちょうどお尻のところに穴の空いたパンツ一枚だけ履いていたので、お風呂場の方へも一部放出され、めちゃくちゃ萎えた。人糞を掃除すると流石に臭い。

外にいるときじゃなくて本当に良かったと思いつつ、全てのリスクをケアするなら替えのパンツを持った方がいいのかもしれない。穴の空いたパンツは高校生の頃から履いていてなかなか捨てれずにいたが、流石に捨てる。

 

2026 10/5

先週の後半は体調不良をこじらせた。おそらく、気候の変化、仕事でタスクが積み重なりかつ人前で話さないといけなくなったこと、合宿で書いた小説を完成させること、友達とWEB開発をやり始めたことなど諸々が重なってパンクしたのだろうと思う。今日は徹夜状態だったがストレスフルなタスクを無事こなしたので、今は落ち着いた。ということはやはり心因性の部分が大きかったのだろう。さらに面倒なタスクが降ってきたので油断できない。

 

スレスパ2やりながら、人にある意味で勧められたニディガのアニメを流し見したが、これはやはりキツい。ネットで流通する承認の問題に関して、出来損ないの警句集みたいなセリフがひたすら流れてくる。リアリズムが欠けているとはこのことなのだと思った。だけど痛いのは嫌いじゃないし、これでどう落とすのか気になるからながら見でも最後までは見るつもりだけど、限界だったので8話で止めた。 

 

さよならララも日曜体調を崩したときに見て、演出や絵はとても良く、また日常パートは楽しめたが、シリアスパートが全然乗れなかった。まず物語に対して尺が全然足りてない。もっと日常パートを積み重ねないと、意味がない感じの展開だと思った。特に日常パートについてはなかなかテレビアニメでは貴重なテンホ感のアニメだったので、もっと長く見たかったと悔やまれる。

スレスパやりながら灰羽連盟をこの間見直したときには、12話で完璧にまとまっていると感動したんだが、これは壁の中の世界という異常状態をあくまでその中にいる灰羽たちの視点でしか描かず世界そのものについて語ることをしなかった。そしてレキの話にフォーカスをあて、日常というものがどんな思いで営まれるのか、そしてその裏が仮にあったとしてその日常は嘘と呼べるわけではないということが、上手く描かれていてやはり最高のアニメだと思った。

 

そしてレビュースタァライトも見直していて、面白いけど、前半はおっぱいが強調されているシーンが毎話ちょこちょこあって、実はエロで釣られていたのかもしれないという割と嫌な気付きをした。もっと高尚な面持ちで見ているつもりだった。それ抜きでもあの9人は捨てキャラなくみな魅力的でいいね。あと演出や話の運びがいい。

 

Steamのオータムセールで何か買おうか迷いつつ、スレスパ2をもう100時間くらいしゃぶるくらいがいいような気もしてる。Timberlandというビーバーの街づくりゲーが気になってる。

 

全てをやるのに時間が足りなさすぎるが、やはり何かを捨てないといけないのだろうか。でもそういう心の優先づけって合理的に考えても解決しないし、よく分からん。

来年あたりに長めの旅に出るつもりだが、これは生活という面で考えれば貯金をはたき職も失うのに、別に得られるものはない。大体旅行は割と退屈な時間が長いし観光は飽きる上に円安だし、辞めた方がドパとセロの総量だけ計算したらコストに見合わないだろうけど、子供のころテレビで南米やアフリカを見ていて、いつか行こうかと思っていたのを、行かないというのもおかしな話なのだ。

でもこの間会社でさらっとアフリカ行ってましたという人がいて実は働きながらでも気合い入れればいけるのか...?と思った。

いやそれでも別に行って目的があるわけでもないから弾丸で行くほどのモチベはないし、まとめて行くのがロマンなのではないかね。

 

 

 

 

 

 

 

2026 10/2

朝、めまいがして会社を休んだ。立ち上がると頭がフラフラし歩くのが覚束なくなる。でも寝転んでいる分にはまあYouTubeくらいは見れる。

昼まで寝たおかげで立ち上がれるようにはなったので炊飯器に残ったご飯で炒飯を作った。肉はなしでにんにく、舞茸を入れ、中華スープの素としょうゆ、味付き塩コショウで味を整える。ただ、中華スープの素は結構そのまま中華スープの素の味がして、もっと調和してくれればいいのにと思った。これは入れる量の問題なのか?そもそも中華スープの素を入れるということはそういうことなのかも。白だしなんかも味噌汁や煮物に入れると完全に白だしの味になるがそれでも美味いし手軽なので受け入れて使っている。

 

やることもないので図書館で借りたバルガス・ジョサの街と犬たちを読んでいた。舞台はペルーの首都リマの腐敗した士官学校で、ちょうど高校生ほどの年代の少年と青年の間の年代の子が、男子寮に押し込められ、厳しい上下関係と暴力の世界を掻い潜りつつ過ごしていく。文体は三人称で括弧で主観が挿入される。また場面が初期ハルヒのアニメのようにバラバラに配置されて意味段落ごとに時系列も人物も何の説明もなく変わるので、これはいつ、誰の視点だというのを主語や登場人物等で察していかないといけない。

まだこれがどのように効果しているのがよく分からんがそれでもまるでおかしな事が起きている訳ではなくまた学園ものでもあるので意外と読みやすい。

 

段々と偏頭痛の方へ移行してきて、いつものやつかと石のように寝ることに。とにかく動かず、じっとしているしかない。そいえば偏頭痛用の薬があると聞いたことがあるので医者へ処方してもらうのも手だけど、それを使ってやることが仕事だとすればそれもおかしな話だ。偏頭痛は不規則に出るので何が原因かは謎なのだが、今回は体感的に寒暖差と天気の変化だろう。それで身体が疲労している感覚がそもそもあったので無理しない方がいいと思った。頻繁に起きるなら薬を処方してもらうけど、半年に一度くらいならまあ安静にするタイミングかと休んだ方がいい。

寝ているうち夜になり、多少発作はおさまったもののまだ左のこめかみが張るような感じがする。

よしたほうがいいのに、アイコスを吸ってみると、いつもよりもニコチンが頭の血管をきゅっと収縮させる感じが重めで、頭がぼやつく。それくらいしかやる事がない。

重すぎない病の日はそれはそれで落ち着くものだ。

 

 

 

2026 10/1

朝起きて、身体が怠かったので午前休みを取った。というのも昨日、ガクッと気温が下がって何だが頭が熱っぽく怠かったし、何より腐りかけの肉のカレーが体内でどうなるかずっと気がかりだった。

朝方、パンツ一枚で薄手の毛布にくるまっていると少し寒気がしたので、ついに冬用の羽毛布団を出してみた。暖かく気持ちがいい。結局昼まで寝ると今度は気温が上がって夏日になり汗ばんで起きた。

 

ボルヘスの伝奇集を読んだ。意外にも探偵小説から、スパイもの、荒野のウェスタン風、または森の中の廃墟で想像の人間が創造されるファンタジーものなど、舞台や人物もバラバラでバラエティ豊かだった。だけど、作品内に出てくるキーの概念は一貫しており、まず円環が挙げられる。小説というのは出来事を描き、つまりは起きたことは基本的には空想の上、読者には関係のないことである。実はその出来事自体が繰り返しているもしくは何かの筋書きに合わされている、例えば、物語の中で登場人物の戯曲により筋書きが決まっていたという話がある。もちろんそれは物語での話だからそれ自体筋書きなのだが、それを凝縮された小編で描くことで、寓話性とそこに直面する限界が、物語が寧ろ得意なはずの出来事自体の荒々しさで誤魔化すことなく、投げかけられる。物語への愛着と同時に語ることへの限界がある。

カフカの場合なら本当の迷路に巻き込まれるところ、ボルヘスだと迷路自体への愛着や拘りが、何度も繰り返され、解決されないものとして漂っている。

 

円環の廃墟という短編が一番印象に残っていて、男が廃墟にやってきて、ひたすら人間の姿、爪の先から何からまでを頭の中で想像する。すると、それが別の場所で実体化しようとしていることに気づく。そしてそれが出来上がり、自分が想像した者と出会うか、いや出会わない方がいいと考える。そして廃墟から火の手があがり火に飲まれたても焼かれなかったため自分もまた同じように想像によって生まれたことに気づく。

 

この男がなぜ想像を試みたのか、はっきりはしないが、最後のオチで自分もまたそのようにできたということから、始めからそう定められていたならとも考えられる。

もちろんその男を想像した者も誰かの想像かもしれないし、その男が想像した者もまた誰かを想像するのかもしれない。廃墟での夢で現れ、男の想像に実体を与えた悪魔しかそれを分からない。

物語としてはだから何だで終わりになるが、想像していると思いきや自分もまた夢でしかなかったこと、それが燃え盛る廃墟に自分が焼かれず、その現実の破壊に一切巻き込まれないことで分かるのは、何とも泣ける話である。

 

迷路の気持ちよさを数学の問題に頭悩まされることに気づくと同時に、この迷路は解くという明確な目的に対して届きそうで届かないという迷路なのである。カフカの城においても、依頼を受けて城へ行くという目的をもっているのに、全然城へ行けないという話である。

 

だが、実際問題本当に迷わせるのは、もはや何が道標かどうかも分からず、完全に自分の場所を見失うということだ。

問題ではないけど、webページのハイパーリンクで飛び続けるとき、これは大きな目的などなく、ただ短絡的にその名称に興味を持ってクリックして目の前に出てきた情報を浴びて、また次へ行く。各ページをつなぐハイパーリンクを俯瞰したら確かに網目上に繋がり、まさしく迷路のように入り組んでいるが、そもそもどこにも辿り着こうともしていないため、迷路とすら思わず、例えばWikipediaをひたすら眺め、その瞬間瞬間のページを楽しむ。たとえば本なら直線的にページが編まれ、紙なら手元を見ればどこまでいったかすぐに自分の位置が可視化される。だがWikipediaではどこまで読んだかなどそもそも考えることすらない。

迷路を迷路と思わずにページを漁り続けて、ふと「我に返り」自分の時間は何だったんだろう?と問うと途端に、インターネットを周回している時間は何だったんだと思わされる。生きているのに、迷路にも気づかない。時間も迷路に迷っていると思う時には過ぎるのが分かるが、そうでなければ時間なんていうものは意味がない。ただ肉体は粛々と進行を続けている。

 

ボルヘスがハイパーリンクで繋がれた無限にも見えるWEBページを見たとき、どう思ったんだろうなというのが気になる。

 

 

 

 

 

 

2026 9/30 数学

今日の昼ごろ、こちらの歪んだ5角形の問題をサムネだけ見た。

https://youtu.be/_aoKphpi3nU?si=jDQC0wBwcVqw7Bls

夜になり、手強い作業にようやく終わりが見え、待ちの時間が発生したときにふと、昼間見た5角形の問題が気になってきた。

そこで、その辺にあった広告の郵便物にえんぴつで図形を書いては考え始める。考え始めたら沼にハマってきて、最初5角形が正五角形になるのではという勘違いに30分ほど費やし、その後面積の問題なのに角度を考え続けるというトンチンカンをして1時間くらい経って分からず答えを見る。なるほど、図形の性質は紐解いていたが、結局目的の面積を求める行動に出れてないという、何とも阿呆なオチだった。

そして、急に数学解きたい欲が出てきて、数学の本を探したが、人にあげたり捨てたりしたのか、全然見つからず、唯一あったのは数学ガール ポアンカレ予想だった。

ポアンカレ予想といえば、ニコ動にあがってるポアンカレ予想の番組である。最近AIによく解かれたと話題になるミレニアム問題の中で、唯一(人力で)証明された問題である、ポアンカレ予想が解かれたときのドキュメンタリー。問題の内容は簡単に解説してくれるが難しいので、難問に取り憑かれる数学者というコンセプトで、こんなに数学者を見れる番組は他にないというくらい数学者が出てくるところが見どころだった気がする。

https://nico.ms/sm19160779?ref=other_cap_off

 

そこで、数学ガールを見ると、オイラーが解いたことで有名な一筆書き問題、ケーニヒスベルクの七つの橋が出てきた。詳しくは以下のページを見て。

http://lupus.is.kochi-u.ac.jp/shiota/graph2023/graph01b.html

これも考えて、確か一筆書きできないこと、なんか経路が奇数と偶数かが大事だったことはおぼろげに覚えていたものの、また明後日の方向に思考が行き、もう23時を過ぎようとしていたので、カレーを作り始めた。まず米を炊飯器にセットしボタンを押してから、問題を考え出し30分が経ち、カレーを作らないと遅くなると思い、野菜を切り、冷蔵庫から豚肉を取り出すと色がところどころ灰色になっていた。消費期限が2日ほど過ぎていたがまあいいかとぶち込んだ。煮込むと何だがヨーグルトみたいな匂いがして、ちょっとうーんと思ったが気にせずに煮込み、また問題を考え出す。そして必要もないのに橋を抽象的に表現する方法を考え出そうとして沼にハマり、答えを見て、始点、経過点、終点とすれば、パターン化できるかと腑に落ちた。

そして、カレーを作り上げ、食べるとあんまり美味しくない。それでも平らげたが、急にこのカレーなんか酸味あった?と思えてきて、急に食中毒が怖くなってきた。まだ肉はあったが見るとやはり色が良くない。とりあえず冷凍して、大量に残ったカレーを見て、どうすればいいんだとちょっと落ち込んだ。

 

とにかく、全てにおいて愚かすぎる。よく分からないタイミングで数学の問題が気になり、飯作る時間がやたら遅くなった。しかも割引だった肉は数日ほど放置されてて腐りかけてるのに、見て見ぬふりしてカレーに入れて、食った後になって急に気になり出す。

風呂に入って諸々反省した。