虚報太郎

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脱線

修論提出から3日ほど経ち、そろそろ月末の発表準備とレポートの締め切りが近づいてきたので動き始めないといけない。

レポートが残っている授業は二つあり、単位的には片方だけでも足りる。片方は情報セキュリティの授業で、1タームの概論と単位がとりやすそうだったので選んだ。もう一つは、ハイデガーの授業で、ハイデガーの哲学やナチズムとの関与についての概要や、『技術への問い』の講読をやった。

ハイデガーの授業は珍しく皆勤したので、折角ならレポートを出したいが、期限が1/31と修論発表とドンピシャで被っていてキツい。色々迷った結果、このレポートを書くことにした。

だからレポートの題材として『芸術作品の根源』を読んでる。

もの、(芸術)作品、道具をまず比較し、非常に雑に言えば、作品は存在するものをあらわにする(不伏蔵性)、すなわち真理が生起する場となる、らしい。その生起とは「世界と大地との闘争を闘わせること」で、その動きが作品へと収集される内に「安らい」が本質を発揮するらしい。今のところ何のことかは全く分かってない。

それとアーティストトークを聞く機会があった。芸術家が自分の作品について語っており、展示の都合、例えば映像の展示でディスプレイだけだと日が当たって見づらいので木で日除けを作る必要が出たところからその形態が決まっていくとか、社会の制度や資本主義批判から出発したものがフェティッシュを帯びるだとか、そういった思いがけないこと、脱線が作品をたらしめていくことが興味深いと思った。脱線というのは、意図的に起こるものじゃなく、勝手にそうなってしまうことで、そういう意味で"偶然性を扱う"、例えばジョンケージの"4'33”"ともちょっと違う。脱線には、区切られた制作や作品の中だけでなく、人生自体を委ねる態度がある気がする。