虚報太郎

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4/16 合理的vs非合理的?

実家から昔読んでいてお気に入りだったり詰んでいた本を回収してきた。そのせいでせっかく本棚に収まりきっていた状態だったのが再び溢れることとなってしまった。家に好きな本、読みたい本をものとして並べておきたいという気持ちと、実際問題としてものとしての本を抱えることでの様々なコストの懸念というのが対立している。最初一人暮らしを始めるにあたっては実は後者を優先していて、マンガもこれだけはというものだけ持ってきて、本は大学入学当時はあまり読まなくなっていたこともあり多くを置いていった。また物へのこだわりへの疑念というのもあったと思う。収集自体に意味を見出してしまうのは不純なのではないかと思った。ただ、コレクターというのが実はものを次世代に伝えていく役割を果たしていて、ただ自分で閉じた存在ではないというのに気づかされたり、いっぱい本のある家を見て単純にいいなと思ったりしたことがあって、必要なものだけがあって整理されたスマートな部屋が自分にとって一概に良いわけではないかと実感した。

結局、多少世の中の風当たりを受けたり非合理的なものでも、自分の中に生じてしまった欲望を完全に無視することは難しいし、そもそもつまらなくなってしまう。なんだかんだ、自分の中の非合理性や倒錯をある程度受け入れつつ生きていくのがいいんだろう。そんな当たり前のことに実際に気づくのにかなり時間がかかってしまったが、当たり前っぽいことを最初から素直に受け入れるのもどうかと思うので自分としてはそんなもんかなと思っている。

ただ、本当に読みたい本やマンガを全てもので揃えたら生活スペースがなくなってしまうので、電子書籍は利用している。やはり紙の本の方がページをめくっていく実感や段々と後ろにいっているのが目に見えるところなどがあって好きなのだが、電子書籍は、場所を取らない、スマホでどこでも読める、買ったらすぐ読める、結構セールをやっているなど単純に便利さや合理性で考えたらこちらに軍配が上がるだろう。

’合理的’へのこだわりというのが世間的に広がっていて、自分の中にも当然あるが、いつどこからやってきたものなのだろう。思想的な出発点として一つ考えられるのは、ベンサムの『功利主義』だろうか?いずれにせよ’合理性’みたいなものは産業革命以降、資本主義と科学技術文明の上昇志向との結びつき、つまり人の思考によって見つかる’正解’というものがあって、その通りにやればうまくいくという理性への信仰があるのかなと思う。ただ、実は今’合理的’なものを唱える人はそんな歴史時間的スケールや文脈では語っていない。ここで”今’合理的’なものを唱える人”として想像しているのは、何を隠そう、ホリ○モン、ひ○ゆきをはじめとした90年代後半のITバブルで台頭してきた人、またその時代から始まる2chなどを中心としたネット文化だったりする。この辺、特に後者は主語がでかいのでしっかりこういうところに合理主義みたいなのがあるよねとある程度具体的に示すべきなのだろうが、今はめんどくさいのでやめておく。彼らには明確な敵がいてそれはデジタルに適応できない、非合理的な人間でそれは主に上の世代が想定されているだろう。つまり、はじめ合理性を近代的なものとして考えとしたが、近代(雑に現在までも含んでしまっている)の中でも分裂が生じているじゃんという話である。これが単なる世代論、若者は上の世代を否定したがるという一般的な論に回収できる話なのか、何か変化が起こっているかはこれから暇だったら考えたい。

あまり関係ないが千葉雅也の『現代思想入門』は、自分のような一般人でも読みやすくて、フランスの現代思想に興味がそこまでない人も常識とうまく距離をとる考えに触れるという意味でいいと思うのでおすすめです。実は関係ないこともあって、こういった2項対立への向き合い方みたいなのも一つの重要な要素としてあったと思う。

最近読んだのにもう記憶が怪しくてこんなんで読めてるのかと、心配になるがそれでもいいんだといってくれる本があるらしく、それがピエール・バイヤールの「読んでいない本について堂々と語る方法」らしい。断定しないのはまだ読んでないからで手元にもないが、気になっているのでいつか読むかもしれない。

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