虚報太郎

書きます。Twitter→@iamsomepen

10/21 0101

人と関わる機会があると、やはり俺はどちらかといえば暗いんだなということを突きつけられる。よほど気を許した相手であるかか酒で酔っ払わっていないと、無駄話できない、盛り上がれない。理性でこの状況ではある程度外向的に振る舞った方がいいなというのを思いそうしても、どこかぎこちない。

暗い人間といえば、今期アニメをやっている「ぼっち・ざ・ろっく!」の後藤ひとりを思い出した。高校に入るまでずっと友達ができず、得意のギターの演奏してみた動画でのみ外界と繋がっている。ただ彼女は、Twitterでも誰か指摘していたけど、暗くても周りを見下していない。性格が歪んでいるわけではない。そういう意味では昨今の潮流に合わせて脱色された「ぼっち」だなとは思う。俺は「ぼっち」ではなかったが暗くはあったので周りを見下していた。ただ、普通に見下しているのでは脆弱性がある。

まず暗い人間が見下すときには周りをバカだと思うのが典型だろう。そこで周りをバカだと思うには、一応自分を納得させるために根拠がいる。勉強ができたり、話が面白かったり、周りとは違うことを知っていたり。しかし、現実は厳しくどれを取っても自分よりできる人間がいる。インターネットでより多くの人間の存在が明らかになっている状況では余計に辛い。

つまりただ周りを見下そうとしてもすぐに反例が現れる。反例に努力で追い上げるというのもありがちだが、頑張るのは面倒だし追い越しできる保証もない。

そこで、自分と他人の間に深い線を引くことにした。そこに属さない、同じ土俵に立たない。チーターより足が遅くて落ち込む人はいない。動物だとそもそも一般に人よりも劣っているという意識がありそうなので、ではオリンピック選手よりも身体能力が劣っていて落ち込むことがあるか、将棋の棋士よりも将棋が弱くて落ち込むか。

それを本来同じ土俵に立ちうる、周りの人間に対してもやる。人を見下す極限として、そもそも土俵から降りてしまった。

それで完全に解決するわけではないが、そう意識で割り切るとまあ人と関わりやすくなる。ただ一方それは人と壁を作るわけで、そうなると根本的なところで孤独になる。

何かを選ぶ時に他の何かを失うことは避けられない。そう思うとこのような意識を選んだ時点でその業は背負っていくしかないのかと思った。