虚報太郎

書きます。Twitter→@iamsomepen

「自意識」

他者からの眼差しを意識しすぎた結果、ネットにまともなことが書けなくなることもあったが、一周まわった結果わりと今度はダダ漏れになってきた。聞いた音楽をすぐにツイートし、読んだ本や漫画は読書メーターに。ふわっと思ったことすらもブログに垂れ流す。

他者の眼差しへの意識、いわゆる自意識と呼ばれるものだけど(ちょっと強引な言い換えかもしれない)、自意識と言うと自己の根幹にあるような錯覚を起こす気がするので、一旦避けてみた。ただ他者からのまなざしを意識すること自体は、社会生活を営む上で必須だとは思うということだけは注意しておきたい。大体の人がこの意識と接することになるのは、学校になると思う。実際は家庭もそうだけど、問題自体が存在しても物心つく前から始まっていれば内在化してしまいそうではある。(学校等も含めた)社会に出ることによって問題が意識される場合はありそうだけど。学校には大概たくさんの人がいる。教室には所狭しと机と椅子が並べられて、3~40人もの人が同じ空間にいる。そこではやはり力関係が生じる。目に見えるものではないので、見出すというのがいいかもしれない。そこで見出される関係は鋭く自分に突きつけられる。そこで、執着する場合もあるし、離れる場合もある。だけど、どちらも杭を打たれているということに違いはない。今だとこれにネットも加わり、24時間365日対応を迫られうる。

自分への戒めとして、「自意識」とかいう言葉でこの「杭」に過剰に反応しすぎてしまったという反省がある。それは半ば通過儀礼みたいなものだと思うけど。それ自体について考えるということが、すでにそれに囚われているという状態。こういった状態は、負のスパイラルに陥るので危険だと思う。

ただやっぱりダダ漏れにしていると、ときどき無性に恥ずかしくなったり、言い訳もしたくなるが、その対象はおそらくあまり実体のない妄想ピープルだ。依代が全くないわけではないが、多くを想像によって成り立っている妄想ピープルとの関係。別に友達だと思っているわけでもないが、何か優れた価値観を持っているような気がしてしまう。

そもそも「作品」をどこかアイデンティティのよりどころの一つとして利用していた節があった。人と接するときは自分をある程度守った上で、家で周りの人が知らないようなマンガやアニメ、本と戯れる。実際は特別隠していたわけではなかったが、敢えて言うこともしない。それをネットに晒すというのは、その"聖域"を破壊することになる。しかしその聖域が「自意識」の温床になっていた。

こうしたところで、カルチャーに実存を託す生き方から抜け出せるわけではないし、「自意識」が消えるわけでもない。そもそもネットに晒すというのは、一種の自己顕示であって、これこそ「他者の目線を意識したもの」と捉えられるわけだし。ただ、人と関係を持つ上で「人から見た自分」に関心が向き、そこを操作したくなるというのは、自然なことだと思う。そこで「自意識」というものがまず問題になるのは大抵、寧ろそれ自体由来するものだ(「見せよう/まいとする意識」が相手に透けてしまう、という気付きからそこを隠そうとする、という構造は最初の「見せよう/まいとする意識」を働かせる場合と全く同じだろう)。そこでは終わりのない格闘を続けるハメになって苦しくなる。そこでとりあえず晒してしまう、正面から行ってみるというのは一つその終わりのないループから抜け出すという意味ではいいのかと思った。

結局言いたいのは一般に「自意識」というのは、他の人間がいて初めて立ち現れてくるものだと思うので、そこに自分の生そのものを見出すような過剰な重心を置かず(とはいえ、人間関係というのは生活の上で大きなウェイトを占めるのは事実なので軽視もせず)、適度に距離を置きたいねという話。