虚報太郎

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10月まとめ

10/11

絵画、とりわけ油絵を見たときに、そこにはベトベトとした(していた)かたまりが着いた、立板があるわけだが、ときにそこに広がる風景や人物を見出せたり、むしろそのかたまりが意識されたり、それとは無関係にその立板の圧迫感を感じたりする。

また、何かが感じられたとして、必ずしも望ましい形で感じ取られるわけではない。

岡崎乾二郎『抽象の力』を読んだ。最初の本論が結構面白かったが、内容は大方忘れた。抽象絵画が、思考の在り方を探るものとして、同時多発的に現れたことを、遠く西洋から離れた日本の画家を主にして、論じていた。

本論は全体の1/4程度で、残りは熊谷守一や建築家の白井晟一などを取り上げ、その作品の設計思想について論じていた。最後に、批評、アートのあり方を論じる文章で終わった。

10/26

先日、所用があって、久々に横浜へ行った。

用事を済ませてすぐに東京に戻ったので、ほとんど街は歩かなかった。ただ、東横の車窓から飽きるほど続く住宅街と青空の景色が見えて、今まで身の回りになかった(見えてなかった)けど、ずっとこれらはあったんだと、素朴に感じて嬉しかった。

Amazonのポイントの有効期限が切れそうだったので、とりあえず使うために買ったロラン・バルトの『明るい部屋』を少し読んだ。写真論の本だと聞いていたが、"論"という堅苦しさはなく、寧ろそこですくわれない、より個人的で根源的な疑問について、なんとか語ろうとするところに興味を惹かれた。

10/31

肩凝りや膝の関節の痛み、疲労などですぐに眠りついたと思ったら、変な時間に起きてしまった。街の寝静まったこんな時間に起きるとそわそわする。しばらく、夜寝て朝起きる生活をしていて、久々の倒錯が苦しいのか、溜まった不安のようなものが蔵から出てきたのか。

不定形の不安には、原因を求められるのか。

健康のための操作としては、精神的理由づけを避け、身体的な理由づけ(疲労など)をして、極力体調の問題として扱っている。前者は大抵解決しようのないことなのに対し、後者は比較的対処しやすい(休養をとるなど)。

 

今月から東博で始まった展覧会に関連してから、横尾忠則のインタビュー動画がYouTubeに上がっていたので見た。意外にも身体的に絵を描いてきたそうで、始めたきっかけも成り行きで、本当は郵便屋になりたかったと語るところでズコっとなった。

youtu.be

2年前に横尾忠則展を見たときは、まさに頭固くなって、意味を読み取ろうとして迷走していた時期だった。よく分からず帰った記憶があるが、本人の話をきいて腑に落ちた。

意味を読み取るときには、目の前のものである絵の、部分を切り取って、記号か証拠品かのような扱うことになる。そこでひとつのものであることを忘れてしまうと、個人的に絵を楽しむにはもったいない。それは名画を見たときの経験を思い出すと、ものとして目の当たりにしたときの衝撃がまず先立ち、その衝撃が一番面白かった。

目に慣れていないために、世界のありのままの部分と触れるうる。