虚報太郎

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ハイデガー講義メモ1

ハイデガーについての講義をとっていて、箸休め感覚で授業に出ている。

存在と時間』という本が有名で、自分もその圧倒的名前のかっこよさに惹かれて、ハイデガーに興味を持った口だが、先生に曰く『存在と時間』は、ハイデガーの哲学に触れるという意味では、非常に危うい書物らしい。

ハイデガーの哲学の中心は「存在への問い」という言葉で表される。

まず存在について、存在者(人、もの)と存在(sein<独>=be<英>)という区別(存在論的差異)を行う。二つの関係の例えとしては、自分の目の前に鳥が飛んでいるとして、この鳥は一つの存在者なわけだが、その存在というのは、どこか巣か水飲み場から飛んできて、目の前を今飛んできて、そしてまた視界から消えて立ち去っていく、という行為の時間経過や、空間的な広がりの全てを指す。要は、存在者というのは、ただそれだけであるのではなく、実際には具体的な場所を占めていたり、何か行為をしていたりする、その在り方、様態まで含めたものが存在なのだという話だ。

「存在への問い」は、この存在というものに着目し、その意味を明らかにしていくことを目標としている。

ここでは、プラトンアリストテレス由来の存在論においては現前する、時間の広がりから切り出された存在者というものだけが着目されてきたことが念頭に置かれている。

存在と時間』の話に戻ると、ハイデガーの根幹であるこの「存在的問い」について、『存在と時間』だけではミスリーディングを引き起こしうるそうだ。

まず『存在と時間』においては、人間を、現存在(Da-Sein)という、存在に立ち会う特別な存在者と位置付け、現存在を通じて存在を理解するという道筋で「現存在の実存論的分析論」を展開していく。この「現存在の実存論的分析論」から始めることは、カントやフッサールなどの従来の哲学者からの影響であるが、そこで従来の哲学と混同が起きてしまい、主題である「存在への問い」という点がぼやけてしまう。さらに、未完であり、肝心の「存在の意味」が提示されずに終わってしまう。

 

結局ハイデガー自身が、それまでの哲学を根底から問い直す「存在論」を言葉にすることには、ずっと苦慮し続け、『存在と時間』も本人としては納得できず、その後も色々な試行錯誤を続けていくらしい。