虚報太郎

書きます。Twitter→@iamsomepen

12/11

頭の働き方、調子が日によって違うことを肌に感じる。

哲学書のような頭を使う本が読めるとき、そこまでは読めずとも「西洋美術の歴史」のような、出来事が記されているような本なら読めるとき、そもそも読めない日。

調子に波があるというのは、当たり前の話であるが、調子の波を感じて、のっていくということは軽視されている気がする。調子を上げる、疲れをとる、パフォーマンスを上げる、みたいな方法は取り沙汰されるが、調子の波を受け入れのっていくことはハナから相手にされていないようだ。まずパフォーマンスを定常的なものとして考えると、自分の調子の上がらなさにがっかりしたり、その維持に神経質になったり、気疲れが多い。そもそも、調子は一本調子のものではなく、波がある。日によって、時間によって。それは複雑なものに左右されている。精神を含む身体、もちろんそれを取り囲む環境。

まず、人の産出を、定常的なパフォーマンスとして考える、期待するというのは、社会的要請である。(時給や定時など時間で発生する報酬とそれに求められる労働)。そこにおいて調子の本来の複雑さ、予測不可能性は、邪魔になる。産出は、社会のプロセスの一部であり、プロセスの一つ一つが、カオスで不安定になれば、プロセス全体を維持することが難しい。例えば、締め切り、原稿が上がるのが遅れれば、その後ろに控える編集、印刷の作業が始められない。さらに、編集、印刷それぞれに関わる人が、不安定性を発露すれば、見通しはつかなくなる。

要は、他との繋がりがあるからで、そこでは予め決めることが必要になる。

そんな中で、自らのリズムを尊重することは可能なのか?定時があって、出社しないといけない中、調子の変化にのることができるか?