虚報太郎

書きます。Twitter→@iamsomepen

12/13

最近はよく本屋へ行く。同様に図書館にも行く。大体人文系の本を眺めている。特に哲学分野がメイン。寧ろ哲学に関してはそれまで避けていた。難解なだけで中身がないだろうという根拠のない偏見があったと思う。その実、全く興味がなかったわけではないが、その興味が「知的権威的なものを読んでいるという自意識」のように見えるのが恐ろしかったというのもある。

哲学というのが何なのかは自分の中でぼんやりとイメージが浮かび上がってきたが、実際何をしているのかはよく分からない。歴史を見ると、哲学が理系分野を含めた、今の学問の祖であることは分かる。だけど、途中で自然科学は、観察や実験といった"実践的”な手法を身につけ次第にいわゆる哲学とは歩みを違えた。そして、自然科学は目まぐるしい成果をあげ、文明の中心へと祭り上げられる。では、哲学はどうなのか。

 

人生というのは何をするのか。幸運なことに不自由せず大学に通えていると、色々雑事はあるとはいえ、基本的には暇だったりする。しかし、悲観的なので、隙間があれば不安が立ち込めてくる。そこに、理由が肉付けされる。「生きがい」「就職」「孤独」。普通に考えれば、火のないところに煙は立たない、何か原因があって結果(不安)が生じている、のだろう。僕もそう考えていた。そこで、原因に一つ一つ退治してみるというのをずっとやってみたのだが、どうもそれぞれの原因にあまり意味があるように思えなかった。それはまず、不安を含めた感情が、あまりにも体調や些細な出来事に左右されるということ。つまり、それまであげた精神的な原因に基づくというよりはもっと肉体的な反応に思えたからということ。また、挙げられた原因側も、環境によって左右されたり、不安定だったことがある。

だからと言ってそういった原因たちが完全に幻想であるということではない。ただ、特権的に感じすぎていたのだと思う。

不安が単に肉体的な反応であるなら、偏頭痛みたいなもんだと割り切って耐え忍べばいいのか?

 

結局、僕たちは一寸先も分からない。究極的には全て経験的に判断していて、その保証はどこにもない。その”経験”もそれぞれ歪んでいる。

しかし、やはり先を知りたい。そんな盲目で野心ある人間たちが一つ一つ積み上げてきたのが「知」なのだと思う。それが何かを示すことを信じて。

しかし、やはり積み上げたものが、必ずしも意味をなすかは分からない。先になって全て否定され、崩されることもある。

初めから、「意味」を諦めて、開き直り、積み上がった美しさを追求することもあり得るが、そこにあまり乗ることはできない。

崩壊の危機を突きつけらながらも「意味」を目指すことに、人間としての美学があると思う。

その葛藤を一番引き受けているのが哲学なんじゃないかと思う。