虚報太郎

書きます。Twitter→@iamsomepen

昨夜は、昼寝をしたせいか、眠りになかなかつけなかった。

論文は、とりあえず昨日中に書き上げたかった部分は終わらせて、先生に投げた。

今日は、指摘された修正箇所の直しや加筆と、ミーティング、測定など。

全体の構成は作って、書けるところから書く。とりあえず書き上げて、人に見てもらう。

頭の中で迷うよりは、文字にしてしまった方がよいという経験から、とりあえず手を動かすように心がける。自分の思考には限界があり、例えば全体と細部を同時に考えることは不可能で、なおかつ考えたことを覚えていれない。だから、思考はいずれかに絞り、思考の結果は再度見直せるように記す。

 

こう書いてみると、デカルトの名言「困難は分割せよ」じゃんとなった。ライフハックは大体既出ネタ。

とはいえ、言葉では理解していても、実感として抱き、行動に活かせるかはまた別問題だとは、身に染みている。

夏休みの宿題はさっさと終わらせた方が後で泣きを見なくていい、なんて分かっているけど、実際のところ、何となく後回しにして気付けば8月も終盤だった。

自己啓発や名言の効能は、言葉の内実よりも、いかに衝撃を与え、行動に繋がるかにかかっている。言語を用いた、脳への介入。

そういったものと考えると、自己啓発も興味深い。今ある自己啓発は、資本主義にドライブさせるものばかりで、どうかとは思うけど。

面白いものは、頭がざわめきたって、のめり込む。ただそれだけのことで終わってしまうことが大抵だけど、本当は自分を別のものにして欲しい。本音を言えば、上へ向かいたい気持ちが強いが、それすらも変えて欲しい。

残り1週間

修論締め切りまであと1週間ほど。目標60ページに対して、現在39ページ。1日3ページ書かないといけない計算、かなり苦しい。

まだ実行できていないコードがあって、それはかなり先生方に助けてもらっている状況。自分はもっぱら、執筆と過去のコードとその比較対象の性能測定にまわっている。割と後者の測定に時間が取られているし、この後さらにグラフ化が待ってるので大変そう。

お腹の調子が本調子じゃないのに、耐えかねてビールを飲んだり、深夜に新大久保でサムギョプサルを食ったりしたので、やはりまだ微妙にお腹の調子が悪い。

締め切りが近くなってきて、ずっとそわそわしてる。疲れて頭が働かなくなっても心休まらず、ずっとベッドでモジモジする。作業をした実感さえあれば落ち着く。これがひどくなるとそわそわのあまり作業に手がつかず、作業が進まないから状況も精神も悪化しさらに体が動かなくなるという負のスパイラルへ。

今回はまだ作業に手がつく程度のそわそわなので、結構マシな進度で来ている。ただ現状マシというのは主観的判断で、実際安全に間に合う進度なのかは、よく分かってない。

 

 

モダニズムのハード・コア メモ1

批評空間のモダニズムのハード・コアを読み始めて、なかなか面白いなあと思った。

冒頭では本書の方向性を明示するような座談会をやっていて、「モダニズム再考」というタイトル通り。モダニズムに関する理論的な整理や刊行当時における現在のアートや建築について。前者は、勉強になるなという感想で、後者については、特にポリティカルコレクトネス(PC)の現状にも触れていて、今も変わっていないか、酷くなっているなと実感を伴って読めた。ようは、絵画や彫刻、建築自体の価値というのを認めづらくなり、例えば受け手を巻き込み、社会への参加を促すものだったり、建築なら誰々にとって役にたつや環境に優しいなどだったり、外在的にしか、評価をしようがなくなってきた状況で、PCのようなものになびかざるを得なくなっている、という話だと受け取った。

もの自体の美ではなく、こちらに"参加"を促すアートは、現代美術ではよく見る。それが全て悪いとは言えないとはいえ、私という主体を常に必要としこちらに迫りかかってくるような感覚のするものが結構多くて、それには辟易とする。

この本に掲載されていた、論考『芸術と客体性』は、そういったアートが芽生えてきたころの70年代アメリカのもので、その走りともいえるミニマル・アートをリテラリズムと呼んで、批評していた。

 

そういった具合に、現在はモダニズム以降、つまりポストモダニズムにあって、その中で芸術がいかに受容されうるか、価値を考えれるかというのを原理的に考えるにはうってつけそうなので、もうちょっと読みたい。

 

12月読んだ本

言語が消滅する前に 國分功一郎, 千葉雅也 

一月以上前であまり、覚えていない。結構いいことを言っていた気がする。

大学に勤めつつ、積極的に一般向け書籍の出版、メディア露出をして、専門知識をわれわれ大衆に合うように再解釈し伝えようとする点で、二人は共通している。両者のそこへのアプローチの真摯さや、純粋に読み物として面白いので、最近好んで読んでいた。

 

スローターハウス5 カート・ヴォネガット・ジュニア

ヴォネガットは、人への、突き離すような態度と優しさが同居しているのが好きだ。『タイタンの妖女』という大傑作では、非神話的な圧倒的外部に振り回される、二人の人間をユーモラスに、そして少し情をもって描き切っていた。

そして、今作では自伝的な側面を持ち、どうしてそういった作品を書くのかのキーにもなる、戦争体験を、これまた彼らしいユーモアで、しかし克明に描いていた。

 

西洋美術の歴史1 ギリシアとローマ、美の曙光 (中央公論新社)

軽く触れてはきた西洋美術史を一度詳しくおさらいしたいと思って読み始めた。読む美術史というテーマのもと、古代ギリシャから始まり、現代美術まで紹介してくれる、全8巻。

文庫本よりも一回り大きいサイズで、600ページほどとそれなりに分量がある。だから結構細かく、時代の風俗などを交えて紹介してくれるので、面白い。ただやはり美術は、文字情報ばかりだと厳しい部分はある。図版はもちろんそれなりに掲載されているものの、図版に載ってない作品の解説が多分にあり、自分で作品の画像を見つけようにも、古代だと、作品名で検索するだけでは見つからないので、なかなか困る。

総合的には、読んでよかったと思うし、実際に年末年始にヨーロッパの美術館のギリシア、ローマコーナーに行くと、これはギリシア彫刻のローマ時代のコピーだなとか、胸像はローマのものだなとか、色々知識と照らし合わせて見れて、楽しかった。大人の嗜み感がすごい。

 

スピノザーー読む人の肖像 國分功一郎

最初の対談本にもいた、國分功一郎の新書。

國分功一郎の本は、対談本でも指摘されていたけど、哲学の本でもミステリーのように謎をしこみ、読者の好奇心を煽って読ませる工夫が詰まっている。この本でも、常にスピノザは何を問うたのか?その問題を追うという明確なテーマのもとで、スピノザの人生と著作を時系列に沿って見ていく。

ドゥルーズの哲学原理』も面白かった。中動態は途中まで読んで、放置中だけど。

 

 

 

 

友達は減ったけど

美術に入れ込むようになってから、友達が減った気がする。現代や現実から離れたくて始めた部分はあった。でもやはり周りの人と交流できない寂しさはある。

ただ、これまで周りの人間に合わせたり、時流に乗ろうとしたりすると、結局何もできず、自己嫌悪に陥る一方だったので、それよりかは孤独になったり、無意味に終わったりするようなことでも、とりあえず行動できている方が満足できている。

昨夜はなかなか寝付けなかった。それしばらぬは本を読んでいた。結局痛いほどの疲れ目で、辛くてそれも無理になった。部屋を暗くしてベッドに潜ってもそわそわが止まらず、弱めの睡眠薬を飲むことで何とか寝ることができた。今日の午前は用事があり、何としてでも寝ておきたかった。

朝は起きれたものの、睡眠薬が残っているからか、眠気が取れないし怠い。これがあるから睡眠薬は嫌だな。

午前の用事を終えて、コメダで研究のミーティング。ギリギリになっても、プログラムが動かず、それまでずっとサポートしてくれた研究員の方に加えて、年末からは指導教員の全面サポートを得て、事を進めている。半ば、自分が置いてけぼりになるのを感じて、情けないような、それでも有難いなあと思いながら話を聞いていた。こんなんなのに、年末年始海外旅行いってるのも、アホすぎるし。

運がすごく良いのか、学部のときは卒業のための単位が一つ足りてなかったのに、春休み中に、落とした授業のレポートを改めて出すことで、卒業させてもらったし、今はこんな感じだ。

学校側としても、もちろん良心のもとでやってくれているのは前提として、こいつを残してもしょうがないみたいなところもなくは無いかもしれない。

とはいえまだ、卒業できるのは決まったわけじゃ無く、修論は書かないといけないので、自分のできることを頑張りまつ。

 

ミュンヘン/ウィーン/プラハ旅行での収穫

旅の率直な感想として、改めて美術は面白いなと感じた。絵画は一目で全体が分かるものの、分かり切った感覚はどれほど眺めてもなかなか得られない。名画であるほど、感情は込み上げても、依然として何なのか分からないままで、ずっと眺めてしまう。

今回は、結構タイトなスケジュールで、正直一つ一つの絵を見る時間はあまり取れなかった。少しでもピンと来なかった絵は、足を止めることもなかったし、気になった絵も、不完全燃焼のまま去ってしまった。

印象に残ったのは、個展絵画でいくと、細密と迫力の描写そして色彩の組み合わせが面白いアルトドルファー、あり得ないほど凝った質感のフランソワブーシェ、生き生きとした人物描写と細密表現が美しいブリューゲルルネサンスの総決算ともいえるラファエロ

アレクサンダー大王の戦い』アルトドルファー, アルテピナコテーク蔵(ミュンヘン)
後ろの風景のやばい青とファンタスティックな描写や、前方の戦の描写で兵を細かく描きすぎて訳わからなくなってる感じ、そして目立つ位置にある文章など、ツッコミどころは満載だけど、それが総体として強烈な印象を与えるのは、何かすごいことだと思う。

フランソワ・ブーシェは、フランス18世紀の華麗な宮廷文化を象徴するロココの画家なのだが、元々浮かれ切ったロココ絵画など軽蔑し切っていたのに、質感があまりに気持ち良すぎて、悔しいけど見入ってしまった。題材や女性、服の装飾などには全く興味が湧かないが、ただその油絵の具の塗りによる陶器のような質感表現という一点だけで強烈な印象を残した。

『ポンパドゥール夫人』フランソワ・ブーシェ, アルテピナコテーク蔵(ミュンヘン)

近代とそれ以降だと、マティスにも繋がる平面性と装飾性が素晴らしい効果を生み出すクリムト、センスが溢れるシーレなどウィーン勢はもちろん、印象派を先駆け光の描写に拘るあまりに何を描いているかわからない(=抽象)けどすごいに辿り着いているターナーは、まず良かった。

あと、六本木ヒルズ前にもある蜘蛛のオブジェで有名なルイーズ・ブルジョワの絵画作品展や、オーストリアとドイツの戦後絵画の特集展は良かった。前者は、シュールレアリスムに影響を受け、自分の不法理な感情を表現した非常にパーソナルな絵画が主だった。

『無題』(1945) ルイーズ・ブルジョワ, ヴェルベデーレ宮(ウィーン)の特別展にて

後者は、ドイツとオーストリアの画家をそれぞれ対として、紹介する展示で、合計十数人くらいの、おそらく現代絵画の巨匠たちの絵画が飾られていた。画風は様々で、抽象、ポップアート、ハイパーリアリズム、社会派など、現代における絵画のテーマをおおよそカバーするような感じだったと思う。去年日本でも回顧展があった、リヒターも特集されていた。全体的に質が高く、現代にも良い絵画はあると実感できて良かった。

『無題』ALBERT CEHLEN, Albeltina Modern(ウィーン) 特別展にて

『無題』FRANZ WEST,  Albeltina Modern(ウィーン) 特別展にて