虚報太郎

書きます。Twitter→@iamsomepen

3/24

すばらしい新世界を読んだ。ESを2社片付けた。洗った衣類をしまった。部屋の段ボールを片付けた。

色々終わらせると心が軽くなってきた。

生き死にや価値観や今後や、根本的な問題はあまり解決してないけど。すぐには解決できない、そもそも解決しえない問いについて。澄ました顔で、放っておくのか、問い続けるしかないと、ある種のニヒリズムを帯びた殉教者のように振る舞うのか。この種の問いを俯瞰的に見渡しても、仕方がないと思う一方で、それもまた自家撞着になる。

ある"べき"という方向を持っていながら、それを純化させていくと"べき"の根拠を問えなくなる。僕はこうして形を持ってある以上、純粋なもしくは普遍的なところに達し得ない。

そうカフェインでバクバクした心音を聞きながら、考えてみて、あやふやになり、帰る。

今日は、展覧会に行き、さまざまな絵を眺め、見過ごし、それでも展示は終わる。

今更ながら『1984』も読んでるので、それも進める。

大量のものが僕を通り過ぎるように、あまり多くを沈殿させないように。

恥ずかしながら、僕の部屋には詳しく数えたわけじゃないけど百冊ちかくの積読がある。また、steamライブラリには数十ほど遊んでないゲームが眠ってる。音楽ライブラリにも、一曲目の途中でやめたアルバムがいくつも放置されている。

本当は全て目を通したいところだけど。

哲学をやるぞと意気込んで買った古典たちはまだほとんど読み切ったためしがない。

 

やはり、終わる世界でどうすればいいのかということを考えてしまう。でも最近は、そんな意識上の問いとは関係なく、わずかに推進している感覚もある。今までならそういった無意識な無批判な感覚にあまりいい気はしなかったかもしれない。でも今はそれを見届けたい。

この感覚で今度は満足しないように、継続してみたい。ごく普通に、何かを育み、未知なのに勝手に希望を抱いているが、それもまたいいかな。思ったよりも行く末は分からないのだから。

^_^