虚報太郎

書きます。Twitter→@iamsomepen

12/14

今日もなんか体調が微妙。

眼精疲労がやばすぎるし、それに伴ってからか頭痛がしてきた。

とはいえ今日初回だった『物質と記憶』の読書会は無事こなせたので何より。これまで座談会を開いたことはあったがどれも単発で、継続して進めていくのはやったことがないので、どうなることやら。今のところ、参加者のモチベが高くて助けられている。

冒頭20ページほどで、心身二元論の超克という題目で、イマージュという用語を用いて、二元論の両極、実在論と観念論の対立を整理し、解決策をこれから提示しようとするところまでを読んだ。

人と読むときの利点はまず、コミュニケーションのために理解の言語化が強いられ、感覚的なもほに過ぎなかった理解が、言語という形を持ち、判断可能な対象となること。

一人で読んでいると、理解したかしてないか曖昧なまま進めるし、逆にそれを自制して読むのはかなり忍耐がいる。そこで言語化によって、曖昧な理解というものが、形になってくれるので、自分の理解の程度を知る強力な手掛かりになる。

言語化自体は自分で要約してみればいい話だが、なかなか面倒くさい、コミュニケーションの場に立てば、頭は強制的に動き出し何らかの出力が出てくれるので助かる。

あと、人と意見を交わすのはやっぱり刺激になるね。

知識/思考は、他者と共有されたり、行為に適応されたりして、確かめられないとやはり価値はないと思う。

また、知識にまつわる興奮を知的興奮と呼ぶなら、まず知ったときにあるは当然として、人へ伝えられたときにもあって、それはかなり大きい。人との関わりを求めているし、それが判断の土台にあるんだろうな。