虚報太郎

書きます。Twitter→@iamsomepen

5/21

自分の領土を眺めてうっとりとくる。街道が果てからやってきて、活気と明朗さをもたらす。しかし、不安がもたげる。川や太陽はどこからやってくるのか、またこの大地は一体何なのか、と。

感傷的な気分が唐突にやってくることがある。太陽の光が嫌に明るく、風が鼻につく。やり切れないことこの上なく、とりあえず音楽を聴いたり、詩の断片みたいなものを考えるが、たいして意味がない。こうしたセンチメンタリズムは、言ってしまえば、慢性的な腰痛や偏頭痛のようなものだと思う。他人にナイーブであることとも、重なるようで、しかし区別しうるのは、それが啓示にも思えるからかもしれない。

こうした感傷を、何とか利用してやろうと思って創作に手を出そうとしたけど、一度も成功した試しがない。よくよく考えると当たり前の話で、感傷に浸っているときは、それこそ脳が精神の神経痛を起こしているようなもので、全くまともに動かない。例えば、物語を書こうと思えば、ストーリーラインを積み重ねていく忍耐が求められるが、そんなことが出来る状態にはない。また、感傷的な気分は過ぎれば、何事もなかったように消え去ってしまう。なので、通常に戻ったときには、全く忘れてしまう。

 

HIKAKINは、炎上を上手く回避していると言われているけども、これは本人の人徳ゆえなのか、それとも対処が上手いのか。これ自体はどうでもいいんだけど、僕は後者を自分の中で採用することで、HIKAKINファンとしての立場を保っている。前者の人徳ゆえというのは、言い換えると「”本当にいい人”だから」ということだ。”本当にいい人”だから、例えば、みそきんが発売したときに、売り切れて買えなかったら申し訳ないと、前もって謝罪したり、結局売り切れた時にもうやうやしく謝罪する。そうだとしたら、気持ち悪すぎて吐き気がする。一年かけて準備した商品が発売して、すぐに売り切れたら普通に考えて罪悪感を覚えるか? むしろよく売れて嬉しい、報われたという気持ちが大きいだろう。要は、ここで謝罪をするのは、人間感情として不自然で、転ばぬ先の杖、1ミクロンの炎上の危険を回避しようとする、慎重で小心な魂胆が透けて見える。悪く聞こえる言い方をしたけど、別にここでHIKAKINが謝罪という守りの一手を打つこと自体には、全く異論はなく、むしろ毎度よく出来るなと感心するばかりだ。

HIKAKINがここまでYouTuberとして長く成功してきたのは、慢心することなく、求られる像を忠実に守ってきたからという一点だと思う。

それは「好きなことで生きていく」という掲げてきた標語からは正直遠いとは思うけど、そういった像としてあり続けるというところは、好感が持てる。そのなんでやっているか意味が分からないが、おそらく強迫的なまでの感情(どこかで、HIKAKINは「見てもらえなくなるのが一番怖い」と語っていた)を、トップYouTuberとしての地位を堅持することに向けられているのは、在り方として嫌いじゃない。それが、”本当にいい人”だから、「トップYouTuberとしての自負」という重い感情を抜きにして考えてしまったら、何とも面白くない人間に成り下がる。

 

一方、自分は強迫的な感情を背負い切ることができず、絶えず逃げ続けることで形を保っている。そうした在り方しかなかったと思うから、偏執狂的なあり方にも憧れてしまう。