虚報太郎

書きます。Twitter→@iamsomepen

7/1

文化が自分を良くしてくれたかは分からない。親と同じように、音楽やアニメ、絵画が今の考えや感覚を構成する一部なのは、間違いない。だから救ってくれたとかは別に思わないが、思い入れはある。なくなったら落ち込みはするだろう。

今日は、幸せなことに特にやることはなく、ゲームをしていた。オーバーウォッチを友だちの友だちとやったら、相手方は結構ガチで、5人で協力するゲームで、途中みんな10キル3デスとかなのに一人0キル7デスで気まずかったが、最後の最後、ピンチのときに、良いタイミングで必殺技を決めたら逆転勝ちして、褒めてもらえたので嬉しかった。そのあと、やっぱり俺だけ下手くそで気まずくなったので、抜け出したけど。

あとは、昨日に引き続きデスストやってた。やっぱりかっけえゲームだ。カッコいいゲームがあるのは嬉しい。

ゲンロンの番組で太田光が、欽ちゃんみたいな素朴なコメディが好きだった学生時代に、それらを全否定するビートたけしに出会い、自分の好みが信じられなくなったあと、たまたま行ったピカソ展でピカソの絵を見たときに、良いと思えて、自分の好みを信じられるようになったという話をしていて、確かになあと思った。

僕自身も、きっかけとかは分からないけど、自分の好みが信じられなくなって、何にも気が向かないという時期が長く続いた。だけど美術館に人と行ったときに、相手の感想を聞いて、最初は自分の気づかないところまで見てるなと戸惑う。そこで、自分の感想を言うと分かってもらえないこともありつつ、意見が一致したり、逆に。その中で、自分は自分で自由に見ていっていいし、それが楽しいんだという当たり前の方向に開き直れて、それから色々楽しくなった。

芸術が分かる、分からないみたいな話があるけど、そもそも芸術をメッセージかのように読み取ることが本質だと思うのは、鑑賞を貧しくすると思う。鑑賞という一瞬は、結局孤独で、だからこそ自由であり、無限を見いだせる、そこに芸術や文化の価値があると個人的に思う。