虚報太郎

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不都合な自分、死、むりぽ

お祈りメールがあるたびに、それなりにダメージを受け、オワタとなるわけだが、そう思いすぎると、また社会に迎合しそうになるので、慌てて気を保つ。

こんな時期に就活している時点で、有名企業に入るのは厳しいわけで、そもそもそんなことにこだわっても仕方ないと思っていたわけだが、それでも変なプライドが湧いてきそうになる時があり、ただそれも反射のようなものなので、もみ消す。

大概の修士2年の学生は、この時期は就職も決まり単位を取り切っていて、あとは卒論を書くのみだと思うが、なぜか就職は決まってないし、単位も6単位残ってるし、研究もまだまとめられる段階までいっていない。

そういうわけで、できる限り負担を減らすべく、出席と感想シートの提出だけだったり、専門知識が要らなそうな授業を選んだ結果、今日4、5、6限と授業を受けることになった。

5限の授業は、高齢社会を考えるオムニバス形式の講義で、1回目は、医師で、国に呼ばれて政策について議論する立場にありつつも、臨床の経験もある方の講義だった。まず、少子高齢化社会による、医療福祉の負担という問題について語る。散々言われているが、少子化労働人口が減っていく一方で高齢者は増えていく、つまり税収は減る一方なのに支出は増えていくという積み状態の中、根本的に打開するには、少子化対策を打ったり、子供の教育にお金を投入して、国力の長期的な増大を目論むしかないが、現状福祉を維持するのに手一杯で、また高齢者の割合が多いこともあって、政治家も伺いを立てざるを得ない状況下、どうすればいいのか?という問題。また、福祉の提供についても、結局介護が追いつかない状況だったり、そもそも介護士の給料が安すぎるという問題だったり、課題は尽きない。

次に、「死」がテーマに上がって、医者として老若男女問わず多くの死に向かったこと、また逆に辛くて死にたい高齢者を何人も見ていることを語っていた。高齢者の中には、老化による身体上の理由、また配偶者に先立たれていたり、やることがなかったりなどの精神上の理由で、生きているのがそもそも辛い人が少なくないらしい。

このように強烈な問題提起がなされて、最後ディスカッションとなった。

僕個人としては、まず前提としてたとえどんなに重大であっても、その前で沈黙、思考停止することは悪いと思わない。そういう意味で、社会問題に対しては、とりあえずどうにもできないねという感想。

関係はもちろんあるが、だからこそ無力感しかない、だって今何ができるのっていう話なのだから。ただ考え続ければ、何かしらあるかもしれないし、そこで選挙に行くというのもわかりやすい手だが、多分自分を宥める程度の役割しかない。それ以上に、自分の来年どうするのという方に頭が引っ張られる。

「死」のテーマについては、子供の頃から考えたり、遠ざけたりしてきたが、最近、脳出血で義父が突然亡くなったこともあって、一気に現実感を持ってきた。一方で祖父母は健在だし、死はかなり不条理らしい。

生き方を考える、というのは今後の振る舞いを考え決めるという意味で未来志向と言える。未来志向でいけば、ある時点から人の体は老いていき、右肩下がりになることも考慮されるし、そう思うといつまでも成長と言っていても辛そう。そして未来志向の行き着く先は、死に方を考えることになる。個人的に、死に方なんて、後で振り返られるわけでもないから、どうでも良い気がするが、歳をとって、それが最後のビックイベントとなった際には、それが中心問題になりうるのだろうか。

 

問題に問題を重ねていくと、よくわからなくなってくる。とりあえず、『アマレット』をきいて、感傷的になっていた。事態がゴロゴロ転がっている中で佇む。ゴミ屋敷となった自室で、平然としている気持ちもこんなところなのかもしれない。

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